未熟なハイカー言葉職人を求む。



575の俳句で恐竜のことを話すNHKの番組を見ました。

出ていた俳句の先生と恐竜の先生の頭が柔らかくて尊敬のまなざしです。


商品の説明を書いたり、キャッチコピーを考えたり、広告のテキストを考えたり、SEOを考えたり、言葉にまつわる意味合いってすごく深く広がっているんだなと最近思い、恐れおののいています。そんななか、575の文字数で表現する俳句のテレビがとても面白かったです。



言葉一つが持つ意味は案外広くてぼやけているもののように感じています。単語は垂らした墨のようにフチがにじんでいるうえに、言葉にまつわる個人の歴史などもありイメージにブレが含まれています。言葉で何かを伝えるのは私にとってはすごく難しい事です。その言葉を575でなんとかやってのける俳句はすごいなぁと思いつつ、恐竜の先生が融通無碍な科学者ですごいなぁと思いました。臨界点のようなものを超えている人には、融通が利き境界をぼやけさせるという共通点があるように思っています。

ある尺度で評価できるものを、例えば恐竜博士の視座から科学的に話すとまた違ったものが見えてくることは、これはまた高度な教育なのだろうと思いました。



俳句の持つ季語には多くのうんちくや背景があるそうで、それを共通認識とする教養が隠されているのだなと思いました。その素養がない私にはちんぷんかんぷんで、味わいきれない無念さが残ります。インターネットの世界で使われる言葉にも、キーワードの背景にいろいろな商売っ気などが隠されていて、それは俳句の季語のようでもあります。


読み手が人間とクローラーと両方いるインターネットの言葉の世界を旅するには、俳句のように素養が必要です。言葉のにじみ部分を「この季語はね」と素養である程度共通認識化しようとする俳句の仕組みは、言葉が進化するときに現れるという短縮化の一つのようでもあり、ものすごく芳醇な文化のにおいがしました。


インターネットの言葉は最終的には人が読むものです。ですが、その機会を創出するための言葉と、人が見る言葉と、人が読む言葉と、色々な側面を調和させていくわけですから、色々な新しいプロフェッショナルが活躍する時代なのだと思います。品物を作り販売していく一連の流れには、つくる事以外にも本当に多くの事が必要です。言葉もその中のとても大切な一つです。サタデーファクトリーは言葉の大切さをわかっています。言葉職人と組める日が必ず来ると思っています。

しかしながら、このブログには季語と呼べるようなものが何もありません。大変な事です。

せめて私も恐竜俳句を一つ。





恐竜の骨のレイアウトが本当は間違っているのではないか、と鋭くも非科学的に指摘する句です。などと、不安で説明したくなる私は未熟なハイカーです。